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自分の目に良いと見えることではなく


ショートメッセージ#11 執筆担当:河野勇也(東海地区責任主事)



「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」士師記21章25節



この箇所は士師記全体の結論となる文章です。


士師記という書物は、ヨシュア記に続く旧約歴史書に分類されますが、歴史書はトーラー(律法)に対して、イスラエルの民がどのように従ったのか、その結果が記されています。ヨシュア記は失敗がありつつも神様に従い、次々と約束の地を獲得していきますが、続く士師記ではイスラエルが堕落していく様子が描かれています。


士師記では何度も繰り返される、あるパターンがあります。①イスラエルが偶像礼拝の罪を犯す。②主の懲らしめとして外国によって征服される。③苦しむイスラエルは主に助けを求める④主が士師を送って救い出し、平和が訪れる。また罪を犯し...と何度もこの①~④のパターンが繰り返されます。


しかし、ただ単純にこのパターンが繰り返されるだけでなく、螺旋階段を転げ落ちるようにイスラエルや士師たちの状態は悪化していきます。初期の士師、オテニエル、左利きのエフデ、女性のデボラは比較的良い士師でしたが、ギデオンは彼の作ったエポデによって後に偶像礼拝が引き起こされ、エフタは愚かな誓いによって娘をいけにえとし、サムソンは性的に放縦で、短気で暴力的な士師でした。


士師たちの物語の後、17章以降ではそばめが暴行され、殺害される事件が起きます。それはかつて創世記19章でロトたちを襲おうとしたソドムと似た描き方がされています。つまり、イスラエルがソドムと同じくらい酷く堕落してしまったということです。その事件をきっかけにイスラエルでは内戦が起こり、ベニヤミン族が滅びかけるという地獄のような状態となってしまいます。

 

なぜそのような事態となってしまったのか。士師記の最後、21章25節では、イスラエルが「それぞれ自分の目に良いと見えることを行っていた」とあります。彼ら自身は「自分は良いこと、正しいことをしている」と思っていたことでしょう。「周りのカナン人だってそうしているではないか」と。しかし、士師記では「イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った」という言葉が7回も出てきます。つまり、彼らの問題は、主の目に良いか悪いかではなく、自分の目に良いかどうか。神の言葉を基準にした世界観ではなく、自分を基準にした世界観に問題があったのです。

 

3月に行われたNC(全国集会)の聖書講解では「世俗主義」の問題が語られました。絶対的な価値観を神様に置かず、人間社会に置いていないか。本当の幸せを神様ではなく、この世に置き、欲望を神として地上のことだけ考えていないだろうかと語られました。


そのような時代にあって、KGKは変わることなく聖書研究と静思の時を大切にしています。私たちの生き方が、「自分の目に良いと見えること」ではなく「主の目から見て良いことなのだろうか」と神の言葉に照らして考え続け、ただキリストの福音にふさわしく生活することを求めていきたいと思います。

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