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立ち止まり、振り返る歩み

執筆者の写真: KGK公式ブログKGK公式ブログ

証#89 執筆担当:刈込里沙(事務宣教局担当主事)


「健全な働きをするためには、働き人自身が健全である必要があるのではないか。」


主事会内で行われたセルフケア研修での冒頭、講師の方がおっしゃった言葉です。もちろんKGK主事のような、いわゆる献身者だけにとどまらず、わたしたちを「非常に良い」と創造された神様は、全ての人に対して肉体的にもメンタル的にも、霊性においても私たち一人一人が健全な状態であることを願われていると思います。身体を健やかに保つためには適度な運動と休息が、メンタルの健やかさのためには自分に合ったストレスの発散方法が必要です。それに加え、私が個人的に霊性とメンタルの健全さのために非常に効果的だと感じるのは、リトリートに参加することです。リトリートはわたしにとってみことばの前に静まり、神様の御声に集中する時間であり、これまでの自分の人生の歩みを振り返る時間です。毎日のディボーションでこれだけ集中してみことばの前に静まれればよいのかもしれませんが、今の私にはそれが難しく、その分、静まりの機会に身を置くスケジュールを定期的に、前もって取り分けることを意識しています。


歩み続けることやどんどんパワーアップしていくことが求められる社会の中で、立ち止まり、時には自分の負の感情やこれまでの経験をじっくり見つめなおす時間や機会を持つことは、あまりこの世の中では価値が置かれていないように感じます。過去のことを振り返ってもしょうがない。立ち止まったら置いていかれる。わたしたちは無意識に社会生活の中でそんなメッセージを受け取り、歩みのペースを落とすことや立ち止まること、イエス様の膝元でただ憩うことから遠ざかってしまっていないでしょうか。


毎回のリトリートで、みことばや用意された設問をじっくり思い返すとき、直近の出来事、またあるいはこれまでの人生で負ってきたものに向き合うことになります。その振り返りは「評価することではなく、これまでの自分自身の歩みを受け入れる作業である」と毎回のリトリートでファシリテーターの方が案内してくださいます。きっとわたしはこのリトリートの機会がなければ、直近の自分自身も、また過去の自分自身を受け入れる機会を持たず、過ぎていった過去が今の自分に与えている影響の大きさに気が付かずに、明日へ、未来へとがむしゃらに爆走するしかありませんでした。


神様は、わたしたちの隠れたところにある悲しみや痛みを放っておいたり、蓋をしておくことを良しとする方ではなく、そこにいつでも癒しと回復、また解放を与えたいと思っておられる方であることを、わたしはこのリトリートの機会を通して感じてきました。ただそれは、神様との共同作業が必要です。わたしたちが自身の痛みや傷に気が付き神様の前にその痛みを嘆くとき、神様は豊かにその傷をいやし回復と解放を与えてくださいます。そのためにはひと時、日常の喧騒と忙しさの中から逃れてイエス様の膝元に縋りつく、そんな時間が必要なのです。


「やめよ、知れ。わたしこそ神」。自分の人生の主権は、この世界を創造された主であることを覚えるリトリートの機会に、これからも期待したい、そしていろいろな人に「リトリートって、いいよ」と宣伝して回りたいと思っています。

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