ショートメッセージ#6 執筆担当:拝高美雪(関西地区担当主事)
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカによる福音書1:38・新改訳2017)
これは御使いから受胎告知をされたマリアが告げた応答のことばであり、彼女の献身をあらわす言葉でもあります。この時代、婚約中の身で妊娠することは絶対にあってはならないことでした。もしマリアの婚約者ヨセフが望めば、マリヤは裏切り者として突き出され、律法を犯したと石打ちの刑に処せられる可能性さえありました。
たとえ死刑は免れたとしても、失望するであろう婚約者や家族のことを思えば、御使いのことばとはいえども、簡単には受け入れられない内容です。しかしマリアは不安ひとつこぼさずに言うのです。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と。
マリアはなぜ、自分自身をささげることができたのでしょうか。なぜ将来への不安さえも明け渡し、主に信頼することを選び取ることができたのでしょうか。
それは将来への不安や恐れ以上に、マリアの心をしめる喜びがあったからです。ルカによる福音書1:46-55は『マリアの賛歌』とよばれる箇所なのですが、その前半部分でマリアはこのように言っています。
『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、 私に大きなことをしてくださったからです。』(ルカによる福音書1:46-49・新改訳2017)
マリアは、ナザレという町に住む、普通の少女でした。マリア自身に何か特別なものがあって神の子の母親として選ばれたのではありません。でもだからこそ、マリアはなんでもない自分に、神様が目を留めてくださったことを何よりも喜んでいました。そしてそんな自分に、主が大きなことをしてくださったことは、誰もが認めるほどの幸いだというのです。
彼女は、将来の安定が約束されること以上に、神様の目に留められていること、そして神様に用いらていれることを喜ぶ者でした。だからこそ、不安があっても、それもすべて主の前に明け渡し、ゆだねていくことができました。
私たちはマリアのように、神の子を身ごもるという経験をすることはないでしょう。しかしマリアと同じように、私たちも神様から目を留められている者です。クリスマスがまさにそのことを象徴しています。
神様が私たちに目を留めてくださったからこそ、イエス様は人となって生まれてきてくださり、私たちに救いが与えられました。さらにこの救いを受けたものは、今度は主のご計画のために、主の器として用いられていきます。ですから形は違えど、私たちもまた神様の目に留められ、用いられる者なのです。それなのになぜ私たちはマリアのようにすべてを明け渡して従っていくことに難しさを覚えるのでしょう。
それは私たちのうちに、神様の目に留まり、主の器として用いられることよりも、人の目に留まり、自分自身が認められることに喜びや幸せを見出す心があるからなのです。ですから、私たちがそんな自分の心に気づき、本当の喜びと幸せを、人にではなく神に見出すときに、私たちもまたマリアのように主に信頼し、たとえ将来がどうなるか見えなかったとしても、すべてをゆだねて従っていくことができるのではないでしょうか。
もうすぐアドベントの期間に入ります。まだまだコロナ禍の影響はありますが、学内やブロック、教会などでも、今年は何かしらの形でクリスマスを共に祝う計画がなされていることでしょう。一緒にクリスマスを祝える、その喜びはコロナ禍のなかでの制限を経たからこそ、大きなものです。
でもたとえ一緒にクリスマスを祝えなかったとしても、クリスマスの一番の喜びが失われることはありません。どのような状況になったとしても、神様が私たちに目を留めてくださったからこそ、イエス様は生まれてきてくださったという事実は、変わることがないからです。その一番の喜びを、私たち自身がまず覚え、携えて、クリスマスの訪れを待ち望みませんか。
みなさんの上に、喜びに満ちたクリスマスが訪れますように。