コラム#5 執筆者:吉澤慎也(総主事)
私は両親がクリスチャンの家庭で育ち、幼い頃から教会に通っていた。そんな私自身の経験と、私がKGKで出会ってきた同様のクリスチャン学生たちの姿とを重ねながら、教会における信仰継承について考えてみたい。
今回のテーマは「聖俗分離」について。
ケープタウン決意表明・コミットメントには、次のように記されている。
「聖書が私たちに示す神の真理によれば、人間の業は、神が被造物のうちに持っておられる良い目的の一部である。聖書は、私たちが様々な召しにおいて神に仕えるという意味で、私たちの職業生活全体をミニストリーの領域内に含めている。これと対照的に、「聖俗分離」という偽りの教えが教会の思想と行動のうちに浸透してきた。この分離が私たちに告げていることは、宗教的活動は神に属するが、その他の活動は神に属さないということだ。ほとんどのクリスチャンはほとんどの時間を仕事に費やす。彼らはその仕事を、霊的価値が乏しいもの(いわゆる世俗の仕事)と考えているかもしれない。しかし、神は全生活の主である。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」とパウロは、異教徒の職場にいる奴隷たちに語った。
このような「聖俗分離」の考え方は、教会で育っていく若者たちの信仰の障害となるものだ。将来的に牧師や宣教師になることこそが、より霊的・信仰的である、というような価値観があるところでは、若者たちは学校で勉強することや友だちと遊ぶことの意味を見出しにくくなる。それは彼らの日常そのものなのに。もしそこにキリスト教的な積極的意味付けがないならば、彼らは「日曜日と平日」「教会と学校」というふうに、それらを無意識のうちに二元的・対立的にとらえるようになり、彼らの生活自体も二元的になっていく。教会やクリスチャンが社会から浮いた存在のように思えてきて、マイノリティコンプレックスに陥っていく。そして結果的に、彼らは静かに教会から離れて行くかもしれない。
仕事はそれ自体、聖書的にも本質的にも重要な意味を持つものであることや、学校生活という彼らの日常それ自体が、聖霊なる神様による聖化のプロセスであることを、若者たちに丁寧に教えるとともに、彼らの日々の歩みを励ましていきたい。