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ショートメッセージ#34 執筆担当:近藤結(九州地区GA)
「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(ルカ2:51、新改訳2017)
「心に留めて」。英語だと「treasured」と訳されています。名詞ではtreasure、宝物という意味を持つ言葉が、ルカ2章で2回出てきます。1つ目は、馬小屋でイエス様が生まれ羊飼いたちが来た場面、もう1つは、過越の祭りの時にいなくなったイエス様を両親が神殿で見つけた後の場面です。
イエスの母マリアは、神様の約束を、そこに何か信じられる理由や根拠がなくても、ただその約束を信じる人でした。まだ結婚もしていないのに、赤ちゃんが、それも神の子が生まれると聞いた時、それを裏付けるような証拠や信じることのできる材料があったわけではありません。「神にとって不可能なことは何もありません」ということばを信じて、「おことばどおり、この身になりますように」と「神の子が生まれる」約束を信じました。 マリアは最初から、何もわからなくても「神様が約束してくださったから」、それだけを信じていました。だから、羊飼いから聞いた話も、イエス様が神殿にいた姿も、その時は理解できなくても、心に留めておこうとした。 マリアは、神様がなさったことに賛美を歌っています。「力ある方が私に大きなことをしてくださった」。周りで起きている全てのことは理解はできなくても、神様がしてくださった、大きなことの内側にある、ということをマリアは受け止めていた。起きた出来事が自分の理解を超えていても、大切に宝物のように心に留めていったのです。
イエス様は30歳で宣教活動を始められるまで、家で両親に仕えていました。家族としてイエス様と過ごした時から、イエス様が宣教に出ている間も、マリアは同じようにそれらのことをみな、心に留めたのだと思います。
イエス様が十字架にかかられた時、その十字架の御元に、母マリアはいました。自分の子が、痛めつけられ、唾をかけられ、侮辱され、嘲られて、十字架にかかっていく。どれだけ心が傷んだことでしょうか。どれだけ、やるせない気持ちになったでしょうか。その傷は自分が受けているかのように痛く、いやもっと、代われるなら代わってあげたいと思うほどに痛かった。心が引き裂かれそうになりながら、でも、十字架を見上げていたのです。
マリアにとって、今まで心に留め続けてきた一つひとつのことを思い返した時間だったでしょう。マリアが心に留めていった先は、輝かしいものではありませんでした。イエス様が十字架にかかって目の前で殺されるなんてことは想像もしていなかったでしょう。最後に待っていたのは、イエス様の晴れ姿ではなく、ボロボロになって殺されていく姿だった。悲しい、痛み、暗闇の中で、マリアはひとつずつ、神様の愛に触れていったんです。心に留めた出来事は、この痛々しい目の前の十字架が私を救うための神様の愛の表れで、イエス様は自分の子であること以上に、私の救い主なのだと分かるように導かれました。
同じように、今辛い現実があったとしてそれが無くなるということだけが、神様のしてくださる良いことではないのだと思います。時にポジティブに見えないまま、その現実が残されることがあります。
赦せないこと、愛せないこと、わからないことで日常は溢れているかもしれない。家族との関係、人に言われたあの一言、今自分は何のために勉強しているのか、なぜここにいるのか。 でもそれらを、マリアのように心に留める時に、それは神様の愛の深さを知ることになるのだと思います。痛みを心に留めていくことは、イエス様の愛の大きさを知るプロセスなのだと受け止めます。納得はまだできなくても、私が愛することのできないあの人も、愛のない小さな私も、どちらも既に神様に愛されているのです。
これは恵みです。良い知らせです。イエス様が、私たちを愛してくださっているから。それは理解できないほどに大きな愛で、だから私たちは嫌なこともわからないことも、良いことも悪いことも、全て心に留めることができる。Treasured up、宝物のように、大切に心に留めることができるんです。理解を超えた神様の愛を一歩ずつ知っていく。心に留めることは、神様の愛を知っていく旅路を歩むことです。