学び#2 執筆担当:山口翔(東海地区担当主事)
前回のコラムの最後に、旧約聖書と新約聖書では、文化命令の実現という「宣教」は共通して描かれているものの、その手段が変わっていることをお分かちしました。今回は、そのことについて詳しく見ていきたいと思います。
人が罪を犯す前、神様の代表として創造された人間が世界中に満ちることが、そのまま神様の宣教の目的を成就することとなりました。
しかし、アダムとエバが罪を犯したことですべてが変わりました。アダムとエバが「善悪の知識の実」を食べたことは、単に神様に命令に背いたことを意味するのではなく、神様が神様であることを拒絶したのです。つまり、「神よ、あんたはもう神ではない。私が神だ」と反逆したのです。
王様に対して、「王よ、あなたの王位は私のものだ」と言って謀反を起こしたようなものです。その結果、全人類には罪による呪いが入りました。創世記3章16節では、「生めよ、増えよ」を成就することに苦しみが伴うことが宣言され、
創世記3章17−18節では、「地上の支配」を成就することに苦しみが伴うことが宣言されました。つまり、創世記1章28節の文化命令を成就することに苦しみが伴うようになったのです。
そして、その後のバベルの塔の出来事では、人々が一つの場所に集まりそこから散らされないようにと塔を建設します。「散らされないように」との人間の願望は、実は文化命令に違反しています。文化命令では、「地に満ちよ」と地上のあらゆる場所に散るように命令されています。そのため、神様は言葉を混乱させることで強制的に全地に散らしました。
このように、文化命令を成就することに苦しみが伴い、人類はむしろそれに違反する状況で神様が次に取った手段はなんだったでしょうか?
それは、アブラハムを選んだことです。神様は、アブラハムという一人の信仰者を選び、彼から再び文化命令を成就しようとされました。創世記12章1−3節では、アブラハムを通して世界が祝福されると約束されています。他の国々がアブラハムを見て祝福するなら、それは神様を神様として認めることであり、それによって国々は祝福を受けることができます。神様を否定することで、世界に散らされた人々は、選ばれたアブラハムを祝福することで、もう一度神様の元へ戻ることができるのです。そして、このアブラハムの使命が、後にイスラエルの使命となっていくのです。
創世記1章28節の文化命令は、前回のコラムでも見たように、この時だけで終わるものではありません。堕落後も神様はアブラハムを選んでそれを成就しようとされたように、現代の私たちにもこの命令成就の使命は当てはまります。また、堕落故の呪いで、成就することに苦しみが伴うことが示されています。皆さんが学校で学内活動を行うとき、「神様の栄光を現そうとしているのに、どうして一筋縄ではいかないのか」と疑問に思ったことはないでしょうか?また、クリスチャンとして誠実に生きようとするとあまりにも困難が多過ぎると落胆したことはないでしょうか?そのような現実は、すべて罪の堕落が原因なのです。
だからと言って、もう文化命令成就は諦めた方が良いのでしょうか?神様はそうはなさいませんでした。一筋縄ではいかない堕落の世界であっても尚、神様はアブラハム、イスラエル、そしてクリスチャンである私たちを選んで成就を目指しているのです。神様が諦めないのですから、私たちも諦めずに、神様のために歩んでいきたいと思います。
しかし、現代の私たちには、アブラハムやイスラエルに与えられた方法は当てはまらないということを先に伝えておきます。イエス様が来られてからはまたその方法が変わったからです。その前提を踏まえつつ、次回はイスラエルの使命について見ていきたいと思います。