ショートメッセージ#29 執筆担当:石山麻美(関東地区担当主事)
「いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。」民数記9章17節(新改訳2017)
私たちの人生は、うまくいかないな、進んでいかないな、と感じることがあります。神様はどうして道を開いてくれないのか、と思うこともあります。私たちは、はっきりと目に見える形で「進んでいく」ことを求めやすいです。進路が開かれていくこと、問題が解決すること、交わりの人数が増えて盛り上がること、などです。それらを期待して祈り、行動することは、もちろん大切です。
しかし、民数記9章15節から23節を読むと、神様は進むことだけではなく「とどまる」こともあるんだ、と気づかされます。イスラエルの民がこれから約束の地へ向かっていく場面です。「さあ、これから!」という時、設営された幕屋を雲がおおいました。イスラエルの民はそれ見て「主がともにいてくださる」と確信し、雲が上ればすぐに旅立ち、雲がとどまるなら一年でも旅立ちませんでした。「進みたい」という願いがあったかもしれませんが、自分の力で進むのではなく、主に従う歩みをしたのです。
私は、ちょうどコロナウイルスの感染拡大が始まったときに、KGKでの働きをスタートしました。学内活動やブロック祈祷会の参加人数が減っていく。まだ一度も対面したことのない学生たちとオンラインでしか話せない。彼らの信仰が落ち込んでいくように見える。それらにもどかしさを感じ、神様の働きは「停滞している」のではないか、と感じていました。私は「さあ、これから!」と思っていたのに…と。
しかし、私たちの目に「停滞している」ように見えても、神様の働きは止まっていないのです。なぜなら、雲がとどまっていたのは神様のご計画によるものだからです。私たちが順調に進んでいると思うときも、停滞しているように感じるときも、神様は働いておられます。「停滞している」と感じたコロナ禍であっても、みことばに心を燃やされ、主に仕える思いを持つ学生が起こされていきました。進路が開かれないときも、忍耐深く祈り、主の声を聞き分ける者へと練られていくことがあります。問題が解決しないときも、主に拠り頼み、謙遜にさせられていくことがあります。
たとえ進まなくても、神様はどのように働いてくださっているのだろうか、と目を上げていきたいと思います。そこにも、主はともにおられます。今日も、自分の力で進むのではなく、祈りつつ、聖霊に導かれ、主に従う歩みをしていきましょう。