証#74 執筆担当:小林野花(関東地区担当主事)
学生時代にKGKで教わった一つのことは、主語はいつでも「私」ではなく「神」であるということです。私がその大学、就職先、友人、家族を選んだのではなく、神である主が私をその場へ遣わしたのだという視点に立つ時、たとえその状況が変わらなかったとしても見え方や心の状態が大きく変わる経験を幾度もしました。KGKを通して知ったこの「派遣意識」は、社会に出た後にも私を色々な場面で励ましてくれました。そして今、不思議な導きの中で主がこのKGKの働きへと私を遣わしてくれたことを心から感謝しています。
私が献身を祈り始めたのは社会人になって3年目のことでした。児童相談所での働きを通して痛みや傷のある子どもや家庭と向き合う経験は様々な意味で私を大きく変えたと思います。神の愛など届かないと思える状況において自分自身の愛のなさや罪深さ、不信仰を知りました。色々と難しい時期を通りましたが、それらを通してより深くイエス様の十字架の意味を知り、グラグラと揺れていた私の信仰が確かなものへと変わっていきました。そして一人暮らしの部屋で開かれた、イザヤ書61章1節「神である主の霊がわたし の上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注 ぎ、わたしを遣わされた。」この箇所に心が捕らえられ、傷のある場所へ福音を届けたい、そのために私の歩みを主に明け渡しますと祈りました。
退職後に1年間テキサス州のバイブルスクールへ行くことが許されたことも本当に大きな恵みでした。ゆっくりとした生活の中、祈りの部屋に行き主の恵みの御座で祈る時、これまで抱えていた様々な想いが主の前へと出て行きました。どうして私はあの経験をしなくてはいけなかったのか、なんでこんなに考え込んでしまう性格なんだろう、神様はなぜあれを良しとしたのか…これまで閉じてきた想いと向き合うことはとてもエネルギーが必要で、そこには痛みもありました。しかし、落ち込む度に聖霊が私のために執りなし祈り、御言葉や賛美、そして人や言葉との出会いや再会を通して励まし続けてくれました。1年という短い期間でしたが癒しの時であり、収穫の1年となりました。
そんな祈りの中で開かれたKGK主事の道は私にとってチャレンジでもあります。しかし主が備えて下さった道であることを確信しています。ある友人にKGKの主事になることを祈っていると伝えた際、「帰国したらそうなって欲しいと祈ってた!」と言ってもらいました。祈り、祈られ始められる働きはなんと幸いなことかと思います。これから起ころうとしている主の御技に期待しつつ、主事の歩みを一歩一歩、進みたいと願っています。