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涙を流そうよ


ショートメッセージ#31 執筆担当:井上暁希(中四国地区Graduate Assistant)


 


49 私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、

50 主が天から見下ろして、顧みられる時まで続く。

哀歌3章49節-50節(新改訳2017)

 

哀歌が好きです。不満をいい、嘆き、諦め、涙を流し、その信仰でいいの?と思うぐらい人間味が溢れすぎている預言者がいます。

 

KGKのGAとして働きを続ける中で、学生や支援者の方々の前では、なかなか見せることのできない苦しい現実を通ることがあります。関東出身の自分にとって最も苦しいこと。それは、家族や友人たちの遠く離れた場所で時に孤独にその苦しみに対峙しなければいけないことです。


この箇所では、エルサレムが霊的にも物理的にも崩壊していく様子を心から嘆き、涙がとまらない、苦しいのだと叫ぶ預言者の姿が描かれています。

そこには主のご計画がある。そう受け取っている。しかし、同時に涙が溢れて止まらない。頭では理解できても、湧き上がる感情と心はついていかない。その哀しみの原因が、主からのものだとわかっていても、それでも割り切れない人間の姿です。

 

私たちは悩む時、哀しむ時、涙を流す時。祈ります。祈らずにはいられません。しかし、何に悩み、痛みを感じ、涙を流しているのかに気づいているのでしょうか。

 

哀歌の預言者は、正直に、主の前に、私はこんなにも苦しく、絶えず涙を流していますと記しました。痛みや苦しみ、自分が今どうしようもなく、傷つき、傷んでいるということを思いっきり主の前に注ぎ出す信仰者の姿がここにはあります。

 

そして、心の底から注ぎ出され、ぶつけられた涙と叫びは祈りへと変わっていきます。

50節「主が天から見下ろして顧みられるときまで続く」

哀しみで涙が溢れるばかりだと告白しながらも、しかし、主が顧みてくださると、その涙の先には主への信頼があるのです。天地を作り、私たち一人一人を創られた神は、自ら御子イエス様を私たちのために人としてこの世に遣わし十字架にかかることをもなしてくださる方です。天にいながら地にいる私たちを顧みてくださる方なのです。決してそのままにはされないお方です。哀歌の預言書は涙を流しながらも、でも、必ず主が顧みてくださることに希望を置いているのです。

 

私たちは日々の生活の中で表面上には見せていない。でも、心の奥深い所で、哀しみ、痛んでいる現実があります。主は良いお方であると思いながらも、涙が溢れてくる。簡単に納得することのできない複雑な現実がある。哀歌が読まれたイスラエルの人々の状況と私たちは時代も場所も異なります。でも、主はこの状況のどこにおられるのですか。私は涙が溢れてとまらないのです、と祈る姿は同じです。


私たちはこの現実を神の前に注ぎ出し、ちゃんと哀しむことのできる特権を与えられています。主の前に全ての思いを、祈りとして差し出すことができるのです。


自分たちの心を、両手とともに、天におられる神に向けて上げよう。

哀歌3章41節(新改訳2017)

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